工場の社内バスに乗って職場に向かう時、職場から帰る時、いつも工場脇の小山が目に入る。小山と言っても標高200、300m位はありそうな山なのだが、住宅地に囲まれてポツンとある、なんだか人工的なにおいのする山で、特撮にでも出てきそうだから自分はジオラマ山と名付けて、いつも車窓からボーッと眺めている。
そのジオラマ山が最近、紅葉しているのに気づいた。いつも眺めていたのに不思議なものである。緑から赤や黄に変わっていく、その色彩の変化に今日まで気づかなかったのだ。いきなり赤くなったわけでなし、何で気づかなかったのだろう。心をどこかになくしていたのだろうか。山は多種の赤に被われ美しかった。
心を亡くす。これを一つの漢字にすると「忙」であり、だから自分は「あー忙しい、忙しい」なんて言うと、まるで「自分は今、心を亡くしてるんですよー、心が死んでるんですよー」と言っているようで、あまりこの言葉を使いたくないのだが、確かにここ最近は忙しかった気がする。
だが、忙しいのに退屈でもあった。おかしなものだ。忙しいのに退屈なんてことがあるか、と思われるかも知れないが、事実、自分の心は退屈なのである。満足とか、充実というのは、とにかく体を動かせば得られる、というものではないらしい。心を動かさなければ駄目なのだろう。
セカセカと動き回りながら、ああ退屈だなあと思う時、自分の頭に思い浮かぶのは、来年旅の続きに出ている自分だったり、音楽をやっている自分だったりで、だから自分はそういう思いに対して正直に生きていきたいと思っている。
紅葉が目に入らなかったというのは、考えてみれば恐ろしいことである。美しきものを心に映さぬ瞳に生気は漂っていたろうか。生きた死人にはなりたくない。
スポンサーサイト